すなめりくんの読書ブログ

すなめりくんの読書ブログ

高校の教員です。読んで良かったと思う本を紹介していきたいと思います。

最近の新入社員のコミュ力が…という人こそコミュ力がないかも?『わかりあえないことから』

 

 

目からウロコ!「コミュニケーション」という言葉の周辺でモヤモヤイライラしていたものが、一気に吹き飛ばされ、すっきりした気持になりました。(阿川佐和子氏)

これは掛値なしに「おもしろくてためになる」本です。私も初心に戻って日本語を考え直しました。(谷川俊太郎氏)


他人と同じ気持ちになるのではなく、話せば話すほど他者との差異がより微細にわかるようになること それがコミュニケーションだ。(鷲田清一氏)

他者との対話を通して、いのちが広がる。生きている実感がこみ上げる。厳しくも温かい、人間賛歌!(茂木健一郎氏)

 

  最近の若者はコミュニケーション能力が低下したと言われますが、はたして本当なのでしょうか?そもそもコミュニケーション能力とはいったいどのような能力なのでしょうか?

 この問題について、劇団で戯曲や演出に携わり、現在では大阪大学で表現について研究もされている平田オリザさんが「いま、本当に必要なこと」について書いたロングセラーの1冊。

 平田さんは、近年全国各地で演劇を使った教育実践をされていて、そこでの話がかなり登場してきます。ですので、小学校の先生や、国語の先生にオススメです。

 また、コミュニケーション能力とは何かを考えてみたい人に超絶オススメです。ちなみに僕は教員採用試験で、コミュニケーション能力の育成についてディスカッションしなさいという課題が出たのですが、この本を読んであの時なんて浅はかなことを言っていたのだろうと恥ずかしくなりました(苦笑)。就活で学生に求める能力圧倒的1位としてコミュニケーション能力という記事を見ましたが、学生の採用を担当する人事も、どれだけコミュニケーション能力について深く考えているのでしょうか?かなり怪しいんじゃないかと想像したりします。

 ロングセラーに外れはないと誰かが言ってた気がしますが、軽く衝撃を受ける程度には面白いので是非読んでみてください。

 

 

 

 本書は、コミュニケーションにおいて従来の「わかりあうこと」に重点をおくのではなく、「わかりあえないところ」から出発することを強調しています。

 また、企業が表向きに、学生に求めるコミュニケーション能力としての「異文化理解能力(異なる文化・価値観をもった人と話し合い、妥協点、合意形成を図る力)」と、「日本型コミュ力(会議の空気を読んで反対意見は言わない、輪を乱さない)」という相反するコミュニケーションに隠された二面性を求められる苦しい現状(筆者はこれをダブルバインドという)を指摘します。

 つまり、最近の若者のコミュ力は~と嘆く大人たち、あるいは社会が若者のコミュニケーション能力の発展を阻害しているのではないかという視点が1つ。

 もう1つは、筆者が学生につけさせたいコミュニケーション能力とは、論理的に喋る力よりも、論理的に喋ることが苦手な人の思いを汲み取る能力と言います。最近の若者のコミュ力は~と嘆く側のコミュニケーション能力も問われているということですね。

 

本当に素敵な読書体験をすることができました。かなりオススメします。

 

 

 

 

 

最後に2つ、僕がとても刺激を受けた面白い内容を紹介したいと思います。

 

 

 

 1つ目は、大阪大学の院生を相手に行っている演劇の講義の話です。

 これまでの数年間で1番面白かったのは、理系のポスドク(博士課程終了した人)ばかりがアルバイトで集まるファミレスという設定で、厨房の中で高分子化合物だの非対称理論だの理系の専門的な話が延々と続けられるというものだった。お皿は素数でしか出せないとか、それぞれの店員にこだわりがあって、それ故にこの店はとても暇になっている。さらに、この店の店長が、かつて将来を嘱望された天才物理学者だったのだが、教授と喧嘩して大学を辞めたという設定も秀逸だった。理系の男子ばかりが1つのグループに集まってしまったハンディを、うまく創作に生かした。

  なんか、すごく見たくなりました!!(笑)

 

 

 もう1つは、PISA調査(世界の国・地域の学力調査)の話です。

日本の教育界にショックを与えたのが「落書き問題」と称される設問だった。以下、その内容を少し端折って書く。

 ネット上に、「学校の壁に落書きが多くて困っている」という投書があった。一方で「いや落書きも、1つの表現ではないか。世の中にはもっと醜悪な看板が資本の力で乱立しているではないか」という投書があった。

 「さて、どうでしょう?」

という設問である。「さて、どうでしょう?」と聞かれても、日本の多くの子供たちは、何を聞かれているのかさえわからなかった。落書きは悪いに決まっているから。

 私は設問を少し変えて、学生たちに問うてみる。

「では、落書きが許される場合は、どんな場合でしょう。自分のことでもいいし、社会的にでもいいです」

あなたなら、どのように答えますか? 

ちなみに、この続きは以下のようになっています。

学生たちは少し考えてから、以下のような発言をする。

「その落書きを気に入ったら」…正解。

「その落書きに芸術的な価値があったら」…正解。

「すぐに落とせるものなら」…正解。

中学生から得た答えで私が気に入ったのは、「明日、取り壊し予定だったら」…この視点の転換はとても素敵だ。正解。

 そして、数百人に1人だが、一定の割合で次のような答えをする学生がいる。

独裁国家だったら」

もしもあなたが、独裁国家日本大使館に勤務していて、壁に「打倒〇〇体制」と落書きされたとしたら、「まったく落書きをするなんてけしからん。道徳がなっとらん」と嘆くだろうか。そ、命がけで書かれたはずの落書きを、公衆道徳の問題だけで片づけられるだろうか。

 このPISA調査での「落書き問題」が問うているのは、

文化や国家体制が違えば、落書きさえも許される局面があるという点

 であり、

落書きでしか表現の手段がない人びとにも思いを馳せるという能力こそが、PISA調査が求める異文化理解能力の本質

 

どうでしょう?ちなみに僕は、

確かに資本によって醜悪な看板があるかもしれないけれど、それは落書きをして良いことを正当化する根拠にはなりえない。しかし、厳密に道徳をつきつめて考えてしまうとすごく息苦しい社会になってしまうので、落書きの内容が、他者を傷つけたり、不快な思いをさせないものであって、かつ落書きをすることで他者の利益が大きく損なわれることがない限りにおいては許容される社会を僕は望む。的なことを考えてました。見事に異文化理解能力のかけらもない解答になってしまいました(涙)

 

みなさんは、どんな解答を考えましたか?