【炎上を考える】なぜネット上で他者を過剰なまでに攻撃するのか?
大津のいじめ自殺事件でいじめに加担した少年やその家族の個人情報をネット上に拡散し、ついには、滋賀県の教育長が襲撃されて殺されかけた。
いじめを抵抗できない弱者を多数で一方的に攻撃することであるならば、いじめを批判するネット上でのこれらの行為こそ、いじめではないだろうか?なぜ、そこまでして個人情報を晒しあげ、集団でボコボコにするのか?
群衆の心理に注目し、クラウドのように増殖する悪意が社会に蔓延している問題について、森さんと一緒に考えてみませんか?
善良な市民が正義を振りかざし、厳罰化を求める。大勢が寄って集って一人を叩きのめす。メディアは抗うことをやめ、萎縮し、何事もなかったかのようにふるまう。
これが日本なのか、日本人なのか?
・なぜ高校球児は未だに丸刈りなのか?
・なぜ日本は同調圧力がこれほど強いのか?
・なぜネットで寄って集って大勢で一人を叩きのめすのか?
・なぜ無罪の可能性がかなり疑われた死刑囚の再調査が行われることなく、そのまま死刑が執行されたのか?そしてそのことがなぜ日本人に無視されているのか?
こういった問題に対して、森達也さんが主に群集心理に注目して鋭く分析をした1冊です。
本書は、雑誌などに掲載された短編を集めて作ったものです。従って、1つの話題に対しては十ページ以内で書かれています。そのため、全体では約250ページと短くはないですが、短い空き時間などにサッと読むのにも適しています。また、「悪意」と題にはあるのですが、森さんは淡々と冷静に書かれているので読んでいても全然しんどくはなりません。
自分自身と社会との関わり(ネット利用、メディアなど)に対する問題提起の1冊として最高だと思います。
最後に僕が面白いと思った箇所を紹介したいと思います。
危うい「自由意志」
1961年、アメリカのイェール大学で行われたミルグラム実験は、一般市民から参加者を選ぶことから始まった。記憶と学習に関する実験だと説明された参加者たちは、別室に拘束されていた40代の男性に設問を与え、間違った答えの場合にはその都度、男性に取り付けられた電極を通して電気ショックを与えることを命じられた。電極につながるレバーを押す参加者の部屋にはスピーカーが設置されていて、男性の苦痛を訴える声が聞こえるようになっていた。
ただし実際に電気は流れていない。男性の苦痛は演技なのだ。つまり、社会学的なドッキリ実験だ。
実験前の研究者たちは、大半の参加者は途中で実験を放棄するだろうと予想していた。ところが結果は、誰も予想しないものとなった。男性の「死んでしまう」とか「やめてください」などの悲鳴や絶叫を聞きながら、横に座る教授という「権威」に促されるままに、参加者40人中25人が、最大の電圧である450ボルト(心臓が停止する可能性がある数値で、そのことは事前に説明されていた)まで、電圧を上げ続けたのだ。(略)
それから10年後の1971年、アメリカのスタンフォード大学心理学部の地下実験室を改造した模擬刑務所で、看守役と受刑者役に分けられた10人ずつの大学生が、どのようにその役割を演じるかの実験が行われた。ドッキリ的な要素はない。大学生たちはみな、ロールプレイだということは知っている。実験の期間は2週間と設定されていた。
でも結果として、実験は6日で中止された。看守役の大学生による受刑者役の大学生への暴行が激しくなり、相当に危険な状態になったからだ。中止後に受刑者役の大学生の何人かは、本気で命の危険があったと証言した。(略)
さらに2009年、フランスの公共放送局が、解答者が質問に答えられなかったら身体に電流を流すという新しいクイズ番組のテスト収録を実施した。参加者は公募で集められた80人の市民たちだ。ただしこれも実験だった。解答者に選ばれた男はテレビ局が用意した俳優で、苦しむ演技をすることになっていた。(略)
このときも市民の多くは司会者という権威に従属し、観客という場の圧力に押され、結果としてはミルグラムの実験を上回る81%の人たちが、最高値の460ボルトまでレバーを押し続けた。この顛末はドキュメンタリーとして放送され、フランスでは大きな社会問題になっている。
人の自由意志はこれほどに危うい。簡単に操作される。そして操作さrていることに気づかない。(略)
これらの心理実験は、ごく普通の人が閉鎖された特殊な環境に置かれたとき、明らかに人を死に追いやる可能性があると推定される指示にさえ、簡単に従ってしまう傾向があることを示している。その際のキーワードは、決して洗脳やマインドコントロールなど仰々しい語彙ではなく、権威からの指示と、集団における同調圧力だ。
もう1つ、次は森さんが作成したドキュメンタリー映画『311』をタイの映画祭で上映した際に森さんが喋った内容の要約です。ここでも、群集心理の問題に加え、「不謹慎」について述べられています。
震災後に多くの日本人は、強い後ろめたさに襲われた。被災地の人たちは家や家族を失って泣き崩れているのに、自分は震災前と何ひとつ変わらない日常を送っている。その理由がふとわからなくなる。運だけでは納得しきれない。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。何かをしなければという気分になる。これを欧米では「サバイバーズ・ギルト」と呼ぶ。訳せば「生き残ったがゆえの罪悪感」だ。でもこの気分を抱え続けることはつらい。こうして多くの人やメディアは、罪責感や後ろめたさから目を逸らすために「絆」や「日本はひとつ」などのフレーズにすがり始める。
この現象は今回に限らない。大きな災害や事故が起きたとき、人々は結束しようとする。だって、一人は心細い。連帯して危機を乗り越えようとする。つまり、集団化だ。群れることを選択した人類の本能であり、その意味では摂理でもある。でもその弊害は大きい。群れは時として暴走する。抑制がきかなくなる。
集団化は惨事を引き起こす。だからこそ後ろめたさから目を逸らしてはならない。直視しなくてはならない。撮影現場で自分たちが感じた「撮ることの加害性」と「後ろめたさ」は、震災後に日本中が陥った「サバイバーズ・ギルト」と重複する。ならば僕たちが撮るべきは、瓦礫や被災者ばかりではない。その前でカメラを構える自分たちを撮るべきだ。それが醜悪で狡猾で卑劣であればあるほど、被写体としての意味を強固に持つはずだと考えた。
同時にまたこの映画は、(メインテーマではないけれど)遺体を撮影するかどうかの煩悶を描くことで、震災後に日本中を覆った「不謹慎」なる感覚についても違和感を表明している。
たとえば震災直後に石原慎太郎東京都知事は「花見は不謹慎だから自粛するように」的な発言をた。(略)
遺族や被害者の立場に立って考えることは大切だ。それは当たり前のこと。ところが最近の日本は、この傾向が暴走する場合があまりに多い。つまり被害者や遺族の存在が聖域になりかけている。その帰結として自由にものが言えなくなるのなら、一応は表現に携わるものとして、抵抗はしておきたい。
と述べ、さらにこの「不謹慎」の本質は同調圧力であると言います。
結局のところ「不謹慎」は「場の空気を乱す」と訳せばいちばん近い。具体的な被害は及ぼさない。具体的な基準もない。場によって違う。空気によっても変わる。要するに「みんなが右に向かって歩いているのに、どうしてあなたは左に行こうとするのだ」が、不謹慎の本質だ。つまり同調圧力。全体で動くことを強要される。ことを求めてしまう。その帰結として「花見の自粛を要請」みたいな論理矛盾の状況が現出する。要請されたならそれは自粛ではない。主体と客体が交雑しながら融合している。きわめて日本的な概念だ。ただし日本的ではあるけれど、日本に特有な現象ではない。
エーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」で看破したように、人類全般にこの傾向はある。自由を無自覚に忌避してしまうのだ。だからこそ第一次世界大戦後のドイツは、とても民主的な選挙を積み重ねながら、最後には全体主義を選択した。
人類全般の傾向ではあるけれど、特に日本人はこの感覚が強い。個が弱く、集団と相性がいいからだ。その帰結として多くの弊害が起きている。
本当にたくさんのことを考える読書体験ができました。実は僕が一番興味深いと感じた話は紹介できませんでした。それは、なぜノルウェーは77人を殺害した犯人を許せたのかという話でした。
(ノルウェーは最高刑が懲役21年の国です。その犯人はもちろん懲役21年になったのですが、国民も、遺族からも、さらなる厳罰化を求める声はあがらななかったそうです。そればかりか、惨劇があった島にいながら殺戮を免れた10代少女は、「一人の男がこれほどの憎しみを見せたのなら、私たちはどれほどに人を愛せるかを示しましょう」というメッセージを放ったそうです。)
紹介したもの以外にもたくさんの面白い話があったので、良かったら一度ご覧になってみてください。
【教員志望の学生におすすめ】『子どもの貧困(阿部彩 首都大学東京教授)』
日本の貧困率がOECD加盟国の中で2番目に高いことを知っていますか?
健康、学力、そして将来…。大人になっても続く、人生のスタートラインにおける「不利」。OECD諸国の中で第2位という日本の貧困の現実を前に、子どもの貧困の定義、測定方法、そして、さまざまな「不利」と貧困の関係を、豊富なデータをもとに検証する。貧困の世代間連鎖を断つために本当に必要な「子ども対策」とは何か。
(カバーより引用)
今、いわゆる「しんどい家庭」で育つ子どもが増えているといわれています。学校、家庭、地域の連携が重視されることには、家庭のしんどさ、家庭の教育力の低下という背景があります。
教員採用試験の面接で必ず聞かれるといってもよい、家庭や地域との連携について、今の日本の現状を知っておくとことは非常に意義があると思います。
また、学校教員の精神疾患による休職者(2014年で5000人超)の問題や、新人教員の大量離職などの問題が重要な課題となっています。だから、教員採用試験でも、困難や厳しい現状に耐えることができる人なのか、今の学校現場(家庭環境の多様化、母子家庭の増加など)が置かれている厳しさをどれだけ知っていて、向き合う覚悟があるのか?そういったことを重視しています。
そういう意味でも、貧困の専門家による、客観的な視点から日本の子どもの現状を鋭く分析した本書は教員を志望する学生、教員採用試験に臨む学生にオススメです。特に小学生・中学生の教員を志望する学生には役に立つと思います。
貧困について著者は、
「貧困」は、格差が存在する中でも、社会の中のどのような人も、それ以下であるべきでない生活水準、そのことを社会として許すべきでない、という基準である。
と言います。そして、その基準はあくまでも人によるものだと言います。だからこそ、
「貧困」の定義は、社会のあるべき姿をどう思うか、という価値判断そのものなのである。
つまり、僕たちが、どんな社会を望むのかが問われているのでしょう。
本書は、この許すべきでない生活水準(貧困)で生活する子どもたちを取り扱います。子どもたちにとって、許すべきじゃない生活水準とは何かについて、統計学を用いて説明をします。
貧困研究の分析について
貧困家庭で生きる子どもは、
・虐待を受ける確率が高い
・健康状態が悪い子どもの割合が高い
・少年院に入る割合が高い
・学校で居場所を感じられない(疎外感を感じている)割合が高い
などの相関(因果関係ではない)があることがわかっているそうです。最後の4点目はなど、子どもの主観的な部分(自己肯定感)などにまで、はっきりと差が出ていることにはショックでした。
さらに衝撃的な研究として、
子ども期に貧困であることの不利は、子ども期だけで収まらない。この「不利」は、その子が成長し大人になってからも持続し、一生、その子につきまとう可能性がきわめて高い。
らしいのです。このような研究は日本ではあまり実証例がないそうですが、海外では多く存在するそうで、
アメリカのある研究においては、25歳から35歳の成人の勤労所得、貧困経験が、どれほど子ども期の世帯所得に影響されているかを分析しており、特に男性の勤労所得や賃金、貧困経験が、子ども期の貧困に直接影響されていると報告している(Corcoran & Adams 1997)
1975年に高校を卒業した1万人以上の人々を34年後の1991年にフォローアップして調査している。これによると、高校卒業時点での親の取得は、最終学歴や大学進学率に響いていただけではなく、52歳時点での就労状況、勤労所得にも影響していると報告されている(Hauser & Sweney 1997)
つまり、子ども期の貧困経験は、「いつまでたっても不利」である確率が高くなると指摘している。
日本の子どもの現状はどうなっているのか?
このことについて、なかなか衝撃的な、あまり日本人としては知りたくない現状が淡々と書かれていますので、ぜひ手にとって読んでいただけたらと思います。
続きの本も出ているようです。2000年代後半以降からの最新の日本の貧困の動向が書かれているようなので、また読んで紹介したいと思います。
【中学生の読書感想文におすすめ】『4TEEN』青春とは、人生の友とは何かを感じる1冊
東京湾に浮かぶ月島。ぼくらは今日も自転車で、風よりも早くこの街を駆け抜ける。ナオト、ダイ、ジュン、テツロー、中学2年の同級生4人組。それぞれ悩みはあるけれど、一緒ならどこまでも行ける、もしかしたら空だって飛べるかもしれない――。
友情、恋、性、暴力、病気、死。出会ったすべてを精一杯に受けとめて成長してゆく14歳の少年達を描いた爽快青春ストーリー。
(裏表紙より引用)
僕が読んだのは、何年も前で、たぶん大学に入った直後だったと思います。この作品は日本で最も権威ある直木賞を受賞した作品ですが、著者自らあとがきで、
この作品は直木賞が代表する文学の重力から、完全に自由で軽やかな小説なのだ。
と書かれているように、直木賞っぽくない感じが僕もしました(笑)。ネットでも結構賛否両論あって、登場人物に全くリアリティを感じなかったと辛辣な感想を書いているものも目にしました。けれども、僕はこの小説からほとばしる瑞々しさがすごく好きです。
あとがきで石田さんが
少年たちの生きる力、成長する力を信じて、書くことをたのしみながら一冊の本を仕上げる
とありましたが、まさにそんな小説でした。
なぜ僕がこの小説に魅力を感じているのか、それが言語化されているものを見つけたのでご紹介させていただきます。
新潮社文庫の「4TEEN」公式サイトに作家の森絵都さんの書評です。
単純な話、すべてをわかちあうには、私たちは個々の経験を積みすぎてしまった。恋。挫折。反発。和解。絶望。別離。誰もが味わうそれらを一通り経験し、すでに私たちは二巡目や三巡目に入っている。何もかもが新鮮だった一巡目の驚きや興奮、しびれるような感触。誰かに伝えたくて、わかってほしくて、わかりあいたくてしょうがなかったあの狂おしい衝動も、すべてを笑い話にする術に長けた今の私はいつしか忘れていた。
石田衣良氏の『4TEEN』を読んで、久々に思い起こした。一巡目の世界の初々しさと、生々しさと、痛々しさを。
すでに二巡目、三巡目に入っている僕らや、おっさん世代にこそ、読んでほしいとも思います。
以下のサイトに森絵都さんの書評が全文載っています。この小説の魅力がすごく伝わってくる素敵な書評ですので、一度ご覧ください。